高野山を開いた空海とは?真言宗総本山の成り立ち

森の中に並ぶ石塔と石像 全国

高野山を歩くと、時代の違う建物が同じ町に並んでいることに気づきます。

その順番を決めたのが開創からの1,200年です。高野山は弘法大師空海が開いた山として知られますが、金剛峯寺が総本山を名乗るようになったのは戦後のことでした。この記事では公式の年表をもとに、成り立ちを整理します。

この記事でわかること

  • 高野山の開創の勅許が弘仁7年(816年)に下りたこと
  • 弘法大師が奥之院に入定したのが承和2年(835年)であること
  • 勅許から入定まで19年しかないこと
  • 保延6年(1140年)に700余人の僧侶が山を離れたこと
  • 金剛峯寺が総本山になったのが昭和21年(1946年)であること
森の中に並ぶ石塔と石像

高野山はいつ開かれたのですか?

金剛峯寺の公式年表によると、開創の起点は弘仁7年(816年)です。

出来事
弘仁7年(816年)6月19日弘法大師、高野山の下賜を請う
弘仁7年(816年)7月8日高野山開創の勅許を賜る
弘仁9年(818年)弘法大師が高野山に登山
弘仁10年(819年)高野山上七里四方に結界を結び建立を開始
承和2年(835年)3月21日弘法大師、高野山奥之院にご入定

注目したいのは日付の間隔です。下賜を請うたのが6月19日で、勅許が下りたのが7月8日ですから、19日しか経っていません。

登山の記録が818年である点も見落とせません。勅許から2年後です。高野山は許可が下りてすぐ整備が始まったわけではありません。

私がこの年表で最も意外だったのは、勅許の816年から入定の835年まで19年しかない点でした。開いた本人が山にいた期間は、1,200年の歴史のうち最初のごく一部にすぎません。

建立の開始が819年である点も合わせて見ておきたいところです。結界を結んで建立を始めてから入定までは16年しかありません。山上一帯を整える作業は、当然その期間で終わるものではないはずです。

つまり現在の高野山にある建物のほとんどは、開創した本人が見ていないことになります。歩いて目にする堂宇は、後の時代の人たちが積み上げたものです。

結界とは何を指すのですか?

弘仁10年(819年)の項に「高野山上七里四方に結界を結び」とあります。建立の開始と同時に、山上の範囲が区切られたことになります。

七里四方という表現は面積の指定です。ひとつの建物ではなく、山上一帯を境内として囲ったという意味になります。

この考え方は現在の高野山の姿にそのまま残っています。山内には117ヶ寺があり、そのうち51ヶ寺が宿坊です。ひとつの大きな寺があるのではなく、町全体が寺の集合体になっています。

歩く側にとってもこの構造は影響します。拝観する対象が1ヶ所に集まっていないため、堂を回るには町を移動することになります。費用と順番の考え方は高野山観光の拝観料は?共通内拝券と回る順番にまとめました。

宿泊も同じです。117ヶ寺のうち約50ヶ寺が宿坊という構成は、参詣者を全山で分担して受け入れる形の名残です。詳しくは高野山の宿坊は昼だけ使える?精進料理と勤行で扱っています。

苔むした石灯籠の列

入定とはどういう意味ですか?

公式年表には承和2年(835年)3月21日に「弘法大師、高野山奥之院にご入定」と記されています。

この記事では入定という語をそのまま使います。金剛峯寺の表記が入定であり、別の言葉に置き換えると意味が変わってしまうためです。

奥之院が高野山の中心とされるのは、この835年の出来事によります。堂宇の規模ではなく、弘法大師がそこにいるという前提が場所の意味を決めています。

参道を歩くだけなら費用は発生しません。奥之院へ向かう道は、拝観料を払う堂とは性格が違います。

弘法大師号が贈られたのは、さらに後のことです。延喜21年(921年)に弘法大師号を賜ったと年表にあります。入定から86年後になります。

高野山はずっと栄えていたのですか?

そうとは限りません。年表には衰退と再興、そして分裂が並んでいます。

年表から読める3つの転機

  • 元慶7年(883年)|真然が陽成天皇に説き勧める。開創から67年後に朝廷への働きかけが必要だった
  • 延喜21年(921年)|弘法大師号を賜る。信仰の中心としての位置づけが固まる
  • 保延6年(1140年)|覚鑁上人が高野山から追われ、700余人の僧侶を連れて根来に移る

1140年の項が特に重たい内容です。700余人という人数が動いたのですから、山内で起きた対立の規模がわかります。

883年に朝廷へ働きかけが行われた事実も見逃せません。開創から67年が経った時点で、放っておいても続く状態ではなかったことになります。

高野山を1,200年続いた場所として見ると、平坦な歴史を想像しがちです。年表はそうでないことを示しています。

年号の間隔にも意味があります。921年に弘法大師号を賜ってから1140年の分裂まで219年です。信仰の中心としての地位が固まったあとにも、山内の対立は起きています。

この点は歩くときの見方に効いてきます。堂宇が古いほど価値が高いという単純な順序ではなく、どの時代に何があったかで意味が変わるためです。

金剛峯寺という名前はどこから来たのですか?

金剛峯寺の公式サイトによると、名称は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という経典から名付けられたとされています。

建物の規模も公式に記載があります。主殿は東西60m、南北約70mで、境内の総坪数は48,295坪です。

ここで注意したいのが、金剛峯寺という語の指す範囲です。現在は主殿を指すことが多い一方、もともとは高野山全体を意味する呼び方でもありました。

総本山という位置づけが定まったのは昭和21年(1946年)です。年表には「高野山真言宗設立 金剛峯寺を総本山とする」とあります。

つまり高野山の歴史は1,200年ですが、現在の宗派としての形は戦後に整えられたものです。古さと制度の新しさが同居しています。

大きな屋根を持つ木造の堂

歴史を知ってから歩くと何が変わりますか?

見る順番が変わります。年表を先に押さえると、堂宇の年代ではなく出来事の順で歩けるようになります。

たとえば奥之院は835年、宗派としての総本山は1946年です。この2つを同じ日に見ることになりますから、1,100年以上の幅を1日で行き来する形になります。

歩く距離を主目的にする選択肢もあります。高野山から熊野へ抜ける小辺路は4日の行程で、高野山から熊野古道はどう歩く?小辺路4日の区切り方で区切り方を扱っています。参詣の道を実際に歩くと、山を開くという行為の意味が体感に変わります。

信仰の残り方は山ごとに違います。立山曼荼羅とは何を描いた絵?立山博物館の見方で扱った立山では、世界観が54点の絵として残りました。高野山では年表と町そのものが記録になっています。

年代順に歩くなら、起点は奥之院になります。835年の入定がこの山の中心を決めた出来事だからです。そのあとで町なかの堂宇を見ると、後の時代が積み上げたものだという順序で理解できます。

逆に町なかから先に見ると、規模の大きい建物が印象に残ります。どちらが正しいということはありませんが、順番によって何が主役に見えるかは変わります。

私が年表を読んで行程を組み直したくなったのは、開創期の3つの年号が想像より近かったからでした。816年、818年、819年と連続しています。

同じ平安初期に開かれた比叡山とは、着手した年に28年の差があります。最澄はなぜ比叡山に登った?延暦寺1200年の始まりで、二つの山の時間の使い方の違いを整理しました。

よくある質問|高野山と空海

高野山が開かれたのはいつですか?

弘仁7年(816年)7月8日に開創の勅許を賜ったと金剛峯寺の年表に記されています。

弘法大師が高野山に登ったのはいつですか?

弘仁9年(818年)です。勅許の2年後にあたります。

奥之院に入定したのはいつですか?

承和2年(835年)3月21日です。開創の勅許から19年後になります。

弘法大師号はいつ贈られたのですか?

延喜21年(921年)です。入定から86年が経っています。

高野山真言宗はいつできたのですか?

昭和21年(1946年)です。このとき金剛峯寺が総本山と定められました。

金剛峯寺という名前の由来は何ですか?

『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という経典から名付けられたと公式に説明されています。

まとめ|高野山の成り立ちを押さえる3つの年号

高野山の歴史は、次の3つを覚えておけば全体の輪郭がつかめます。

  1. 816年|開創の勅許。6月19日に下賜を請い、7月8日に勅許が下りた
  2. 835年|弘法大師が奥之院にご入定。勅許から19年後で、以後は奥之院が中心になる
  3. 1946年|高野山真言宗が設立され、金剛峯寺が総本山になる。制度としての形は戦後のもの

1,200年を通しで見ると、順調に続いた歴史ではないことがわかります。883年の働きかけも1140年の分裂も年表に残っています。その起伏を知ってから歩くと、同じ町並みが違って見えてきます。

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